ゆ〜こすの徒然なるままに

アドラー心理学、教育、健康、時々猫…を綴っていきます

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圧倒的なありのまま

保育園や幼稚園に長年勤務して

よく言われたのが

「子どもが好きなんですね」とか

「子どもってかわいいですよね」とか

 

うーん、なんかそういう先生も多いけど

私はそんな子ども好きってわけでもないし、

ゼロではないけど、熱狂的にかわいいとも思わない

 

そもそも音楽が専門なので、

流れで保育の世界に入り、園長までやったのだけど

「子どもが大好きだから先生になりました」

というわけではなかったのです

 

ただ、仕事をしてみると、思いの外保育という仕事にのめり込んでいました

それは子どもたちを観ていると

「いいなぁ」って感じがしたから

面白いことを言ったり、やったり

自由に表現して…

そんな姿はなんか輝いていて素敵だった

この「いいなぁ」って感覚を感じると

胸のあたりが温かくなって、何かが溢れる体感覚がある

たぶん、なんらかのホルモンが実際出ているのかもしれない

 

子どもというのは、まだ

「こうじゃないとダメ」「こうしなければ」という信念がなく

生活する中で徐々に信念が形成されていく…

だから剥き出しの命だし、

自分を守る鎧をまだ着ていないのだ

これは「圧倒的なありのまま」なんだと思う

赤ちゃんは、その場にいるだけで皆を笑顔にし、存在感を放つ

これはもう、人間として最強な状態だと思う

 

きっとそうだったんだな

今思うと、私はこの「圧倒的なありのまま」を観るのが好きだったんだと思う

「いいなぁ」って思ってひたすら観ていたけれど、そこから溢れていたものが

世に言う「愛」なのかもしれないと最近思う

 

そして、私自身にも素晴らしい

「圧倒的なありのまま」があるって事を

子どもたちを通して写し鏡のように見せてもらっていたのだと思う

そのカラクリに20年近く保育の世界を経験して

やっと気づけた気がしています

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最強の回復スポット

夫婦関係が良くなっていく歩み


私はこれまで心理学や様々なアプローチを勉強したりして

人間関係を良くしようと試みてきました

 

とりわけ一番深く関わる人は私の場合「夫」

心理学は具体性があり、特により多く学んでいたアドラー心理学は、行動に具体的な変化をもたらすため、現実が変わりやすいと感じています

 

自分自身の「こうあるべき」という信念を知り、それを緩めていき

無意識の「ライフスタイル」という自分の生き方の「台本」を自覚する事で新しい選択ができる・・・・

そうやって私の夫婦関係も亀の歩みではあるものの、良くなっていきました

 

その上で思うこと

 

アドラー心理学では「横の関係」

つまり夫婦、男女間でも平等で「協力関係」であることが大事とされる

そう、ホントにそうなんですよ・・・その為に行動を変える実践をするわけなんですが

 

でも!!男女関係の中で、私が最近大事!!と感じること

女性が意識したらいいんじゃないかって思ってること

それは・・・・・・・

「受け取る」ということ

 

男性の気持ちを、行為を

受けとってますか?とあえて問いたいです

「いいよ、大丈夫」

「悪いからいいよ」

そうやってサラッと断ってませんか?

何かしてもらったら、返さなきゃって思ってませんか?

やってもらうことが当たり前になっていませんか?

 

男性は女性の役に立ちたいとか、良かれと思ってしてくれている事が

実は日常でたくさんあると思います

それは、仕事帰りに買ってくる小さなお土産かもしれないし

本当にたまにしかやらない家事だったりするかもしれない

タクシーに乗るときにエスコートしてくれることかもしれない

小さなことなら、きっとたくさんあると思う

 

自分を大切に扱ってくれたことを感謝して受け取っていますか?

男性からもたらされるものは、目に見える行動もあれば

もしかしたら無形の「気持ち」という目に見えないものもあるかもしれません

 

女性は受け入れる性

 

女性は肉体的にも男性を受け入れる性です

「受け入れる」「受け取る」ことをそもそも拒否していて

言動行動を変えても、私は夫婦関係、男女関係なんか良くならないと思っています

人間関係で困ってる人に

「どうすれば良くなりますか?」と聞かれますが

もちろん先に書いたように行動に変化を起こすと現実は変わります

 

でも、「どうすれば?」→行動(DO)

という「やり方」は

本当に無意識レベルの思考まで書き換わっているわけではないので

言葉や行動よりも大きなウエイトをしめ、相手に影響を与える

雰囲気や在り方→(BE)は変化してない場合が多く

「うまくいかない!!」「関係が変わらない」という

ループにはまっている人も多いように感じます

 

アドラー心理学では

誰かが始めなければならない

他の人が協力的ではないとしても

それはあなたには関係がない

あなたが始めるべきだ

他の人が協力的であるかどうかなど考える事なく

と述べられています

 

なかなか厳しいと感じるのは私だけ?ではないはず・・・・

 

女性ならではの関わり方

 

しつこいようなんですけど

女性ならではの関わり方があると思います

昔ながらの「内助の功」なんて言葉がありますが

現代において、別に家に入って男性のサポートだけをしている女性・・・

ってことでもないんだと思います

外の世界で激しくHP(ヒットポイント)を削られた男性を

受け入れられるのは

回復スポットである女性なんです

この回復スポットが最強であればあるほど

男性は外で傷ついたって弱ったって

また挑んでいけるんだと思います

 

だからこそ女性は

 

今は仕事においても能力の高い女性が多いので

バンバン活躍してる人もいます

ただ、男性優位の枠組みや仕組みの中で

「男性と同じ」ような成果や仕事の仕方が良いと思っているのだとしたら

見直してもいいのかもしれません

 

何度も言います

女性は最強の回復スポットなんです

だからそのスポット自体が汚れてたりゴチャゴチャしてたらどうですか?

疲弊しまくったらどうですか?

男性は休まらないですよね・・・・・

 

だからこそ私は、女性は心身ともに

自分を整えていくことに意識を持ったり時間を使ったりすることは

とっても大事だと思っています

男女のコミュニケーション、もっと言えば抽象的なんですが

エネルギー循環のために必要なことだと思うのです

 

ここではあえて夫婦関係と書きましたが

ホント言えばこれも全ての人間関係に言えることだと思います

世界には有名な「パワースポット」と呼ばれる場所がありますが

そんなパワースポットみたいな人がいたら

自然と人が集まり、循環し、創造されるんじゃないかな?

 

そんなパワースポットみたいな人になっていけたらいいな・・・・

なんて最近の私は思っています(^-^)

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ちゃんと分かれて一つになる

自立って言うけど

最近思うのは

子育てとか、心理学ではよく「自立」ってワードが出るけど

そんな簡単じゃないよなってコト・・・・

 

人間は動物の中では決して強い生き物じゃない

だからこそ協力して生きていかないとだし

小さいうちは特に養育者に依存しないことには

生命を維持できない

 

なんだけど、この世の中っていうのは

「とんでもない自分責任の世界」なんです

全ての意思決定は結局は自分がしてるし

自分の外側にあるものは

自分が創造しているものなんです

 

だから

・世の中がこんなだから

・あの人がこうだから

・家族、職場が最悪だから

なんて言っても、大人になったら

結局は自分で選びとっていかなければならない

 

誰と生きるかだって、大人になったら本当は選択できる

嫌だったら仕事辞められるし、

家族と一緒に生きるのが辛かったら一人になれる

 

でもでもそんな事したら

仕事無くなって、収入なくなっちゃうよーとか

家族いなくなって、ひとりぼっちになっちゃうよーとか

そう思っちゃう・・・弱い生き物だから

 

だから支配してみたり依存してみたりして

相手が離れていきにくい状況、環境を無意識に作り出す

この「恐れ」が行動の原動力になってることって

実はたくさんあると思う

 

「協調」「協力」「フラットな関係」

いろんな言い方があるけれど

ここに辿り着くには、本当の意味ではそれぞれが「自立」していないと難しい

ところが先に書いたように「自立」には恐れがつきまとう

このとんでもない自分責任の世界を自分の意思で生き抜く覚悟が「自立」

 

そうなっていくには

時に、一度精神的にも物理的にも

「分離」しているプロセスを経ることも大事だなって思う

別々に住むとか、干渉しないとか

そういう水面下の大変だと感じるプロセスを体験して

人は「自立」していくのかもしれない

 

一度「ちゃんと分かれる」ことで「一つになれる」

分離してるからこそ調和を実感できるのかもしれない

どっちやねん?と思うかもしれないけれど

光があれば影ができるように、どっちがいい悪いではない

両方を受け入れた時

新しい景色を観ることができるのかもしれない

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すごい人

人生40年以上生きていると

ほんの少しだけ、

物事がわかる…時もあるような気がする

最近思うのは

「覚者」とか「賢人」とか

そういう類の人?と思われる人は

一見すると、ただのおじさんとか、おばさんとか

「なんかフツーの人だな」って場合が多いように感じる

 

アドラー心理学風に言うならば

「普通である勇気」とでも言うのか…

過度に優越性を追求しすぎず

それでいて劣等感を持ちすぎ、卑屈にもならない

ちょうど良い感じなのである。

変な力が入っていない

それでいて、自分の事はよくわかっているので

自分の能力を使うことには出し惜しみしない

 

こういう人は一見するとフツーなので

すごい人だとわからないし、自己顕示もしないので「すごい」と気がつきにくい時もあるが

話をしたり、一緒に過ごすと

ジワジワ、しみじみ

そのすごさが伝わってくるのだ

 

言い換えると

フツーでいても

自分は素晴らしい

自分の存在そのものを充分愛し、信頼している…

ということなのかもしれませんね。

 

うーん、そういう人に

私はなりたい(^-^)

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偽の食欲

メンテナンスに行ったはずが…

 

先日ボディメンテナンスに行った時

いつもの担当の女性じゃない方が施術してくれたんだけど

「お疲れですね〜、背中ガチガチですね、背中がかわいそう…これじゃあ疲れますよねぇ」

と言っていて

共感してくれてるのかなぁ、と思いながらも

何故かあまりいい気分じゃなかった

「はい…」と生返事をしていた私

 

施術が終わって帰りの道すがら

何故か急にお腹が空いていることに気づく

身体に意識を向けると

なんとなくイライラした気持ちがあって

ジャンクな物が食べたくなってしまった

めちゃくちゃに暴飲暴食したい衝動に駆られた

頭の中ではポテトとかハンバーガーとかが

浮かんだけど、夕飯前というのもあって

何とか我慢して家に帰り

軽いオヤツを食べたら気持ちが落ち着いた

 

夕飯の準備をしながら考えてみた

メンテナンス行ってリラックスしたはずが、

なんで帰りにプチイライラしてたんだろう?

しかも、ほとんど気がつかない程度のイライラ

私はお腹が空いた!と猛烈に何かを食べたがったけど

実は何かをお腹に入れて

塞いでしまいたいような、満たされたかったような衝動に駆られていた…そんな感覚だったように思う

 

そして…更にイライラを遡ってみた

あの施術中の言葉

お疲れですね〜、背中ガチガチですね、背中がかわいそう…これじゃあ疲れますよねぇ

何気ないこの言葉

 

私の胃のあたりが反応してる

身体は日々私の為に頑張っているのだ

心臓を動かし、全身に血液を巡らし

意識しなくても酸素を取り込み…

そこを有難がるどころか

「これじゃあ疲れる」

そう言われたら…

身体はガッカリしてるんじゃないだろうか?

憤っているのではないだろうか?

「頑張ってるのに、ダメって言われた」

 

そして私はそれを

なかったことのように

何かを食べて、埋めようとしていた

ほぼ、無意識で…

「そんな事、いちいち気にしてたら身が持たないよー!何か食べて切り替えようぜ!」

そんな思考の声をキャッチしていたのでしょう

これも、無意識で…

 

たぶん私はこういう小さな声を

ずっと聴き逃してきたんだろう…

現代の多くの人もきっと。

 

違和感、不快感

感じても別に恐ろしくはないのだ

しっかり聴いて、感じきって

その時々でベストな選択ができれば

それがいいんだと思う

 

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リアルで伝える意味

ある程度なら習得可能

最近はいろんな事をネットで調べたり

youtube観たりして、ある程度習得できる時代だなって思う

かくいう私も、デジタルで絵を描くアプリの使い方の大まかなところを

youtubeで覚えてしまった。

 

そして、大学で教えていてこの頃思う

リアルで教える意味がないと、

わざわざ授業に来てもらう価値がない…

 

私の教えているのは音楽なので、

基本的な事はともかく、やはり

フォームとかエネルギー感とか

ライブじゃないと伝わらない事も多いし、

オーダーメイド?な内容が多いので

対面じゃないと伝わりにくい事も多いのだけど、

本読んだり、youtube観たりすれば

わかる程度の事を

まとめサイトよろしく

セミナーとか授業とかでやってたら

たぶんいつかすたれる…笑

 

人のふんどしで相撲とってるような

教え方じゃダメですね

ここは、ホントにこだわりのあるところです

自分が出来てることしか

人に教えられないです。

生きた体験と言葉でないと響かない

響きはライブじゃないと伝わらない

そんな事を大事にしていきたいです

 

昨日は一限からの授業で通勤ラッシュにあい

頑張って行きました

もう、ラッシュとか無理ですね

社会不適合です。ハイ

 

頑張ったご褒美にグリーンパッタイ

パクチー嫌いな人には

拷問なメニュー笑

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ゆるしとは?

許せない!!

ってことありますか?

突然ですが皆さんは許せない事があったり、許せない人っていますか?

まぁ、大体は出来事に「人間関係」が紐付いていると思うので

「許せない人」ってコトにしても良いかもしれません。

私にもどうしても許せない人がいます…

 

自分の中で相手を責め裁いても仕方がないし、

嫌なことをされたとしても、それはその人なりの「愛」なのだ…

とわかっていても

その時感じた自分の苦しい、悲しい感情や

理不尽な思いを手放すことができない事がある

生きているんだもの、

そういう思いをした経験を

誰しも1つや2つあるでしょう

 

心の奥底の地下牢にその人を押し込めていたとしても、珍しいことではないと思います

そして、この心の奥深い真っ暗な地下牢に思いを馳せる時、現在の自分自身もまた、地下牢に降り立っていること、これがまた不快だったりします

 

許すってどういう事?

そもそもこの「許す」とはどういう事なのか…

人は人を「許す」という事が可能なんでしょうか?

許すということの反対は責め裁いているということかな?と思うわけです。

 

そしてそもそも、この「裁く」という事…

これは私の考えですが、本質的には人は人を裁けないと思っています。

自分と自分以外の人が観てる世界も違えば

大切にしている価値感も違う

自分の世界観や価値観を他者にも大切にして欲しいならば

相手のそれも尊重する必要がある

自分の信念とは相容れない時もあるかもしれませんが…

ですから相手を裁かなくてもよくなった時

「許そう!」と思わなくても

自然とその嫌な思いにこだわらなくなるのかもしれません

 

…とここまで書いて

論語の「和して同ぜず」という

仲良くはするけれど、むやみに同調するのではなく、自分の信念は曲げない

そんな言葉が浮かびました

 

もしこの言葉が「裁き」と「許し」に相当する概念ならば、私はちょっと今まで浅い感覚で

捉えていたかもしれません

嫌な事をされたとしても

それは人としてどうなんだ?

と思える事をやっていても

「和をもてるか?」これは重い問いです

私はまだ、それを受けとめるほどの器にはなりきれてない感じがします

 

そして作家の五木寛之さんはこう言っています

『そもそも〈許す〉ことは本来、

 人間の仕事ではないのではないでしょうか。

〈許す〉というのは、どこか傲慢な感じがします』 

まだまだ裁いてるであろう私ですが

この感覚は、私の中にもあります

 

アドラー心理学では…

行動と人格を分けるという考え方をします

その人はマイナスな行動ばかりをしているわけではない

プラスな行動もしているけれど

「私が」マイナスに注目しているのだ

だからその人の「プラス」に「善」に注目していこう…という考え方です

非常にシンプル、そして建設的ですよね。

 

逆説的に言えば

そして、起こっている出来事を

「自分の心の投影」

簡単に言えば「鏡」だと考えると

相手を強く責め裁いている時

自分が自分を裁いている

…そう考える事ができます

つまり地下牢に実は

・ダメな私

・こうあらねばならない私

・辛すぎて直視できない自分

を閉じ込めているかもしれません

 

つまりどんな私でもいいんだ

素晴らしいんだ!丸ごとオッケーなんだ!

と心から思え、自分への許しが起きた時

自分の外の世界の、裁き裁かれが

なくなるのかもしれません

 

どちらでもいい

相手への裁き

それは相手がどんな行動をしたとしても

どんな選択をしたとしても

無関心ではなく、愛を持って

「どちらでもいい」と思えた時に

リリースされるものなのでしょう

 

自分への許しがおきたとき

相手への許しがおきる

「許す」とは

とっても自然発生的なものなのかもしれません

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